深夜に考え事をするのは本当に良くないよって話

自分はいつからこんな人間になってしまったのだろう?

小学生の頃は、なんとなく周りに合わせて「野球選手になりたい。」と思っていた。中学生の頃は「公務員、特に教師になりたい。」と思っていた。高校生の頃は「大企業に勤めてから、社会経験を持った説得力のある教師になりたい。」と思っていた。見事なまでに文部科学省の思惑通り、競争社会の優秀な歯車に育っていたのだ。

それなのに、何故今になってこんなにも迷っているのか。確かに大学時代は色々グチャグチャだったが、本当に原因はそこだけなのか?もともと火種を持ち合わせてたのか?だとしたら、それはどこで手に入れたか?

ここ最近は、毎晩のようにそんなことを考え、悪夢に悩まされ、毎朝ワケがわからないまま選考に出向いている。もうそこに意志なんてモノは存在しない。18歳の自分がこの姿を見たら確実に泣いてしまうだろうが、本当に泣きたいのは21歳の自分の方だ。

自分は、科学技術が全般的に嫌いだ。

19世紀初頭、イギリスの織物工業地帯にて、機械化による雇用損失を恐れた労働者達による機械破壊運動が起こったそうだ。もしもその運動が、そしてそこから生まれた思想が世界の主流となり、そのまま現代まで受け継がれていたらなと、自分は強く思う。無いモノは無いままにしておけばいい、皆さんもそうは思わないだろうか?

例えば車。車が存在しなかったら、人間はもっと穏やかな時間を過ごせていただろう。社会人は歩いて取引先へ向かい、簡単な受け渡しを済ませてその日の仕事は終了。それぐらいシンプルなまま、適度な競争社会を保てば、余計な物事、準じて余計な問題を生むこともなく、それなりの「当たり前」を享受してそこそこ人生を楽しめていたのではないだろうか。

例えば医学。医学が存在しなかったら、多くの人間を苦しめている「病気」というくくりは無くなっていただろう。そして、死はより身近で、特に悲しむべきものでもない、より自然なモノとして捉える文化が発達していただろう。(金があれば)助かることが前提になっているからこそ、余計な悲しみや苦しみが増えるのだ。

科学技術が問題を作り、それを科学技術が解決する。さながら社会全体がジュリー・グレゴリー、科学技術は代理ミュンヒハウゼン症候群である。自作自演の連鎖、目先の欲に囚われた社会は、一体どこへ向かっているのだろうか?

自分は、そのような疑念を抱きながら、毎晩悪夢に魘されるが朝になるところっと忘れ、スーパーポジティブマンになるのである。

へけっ!